姉歯事件、履修問題、汚職…と、行政まで巻き込んで、社会全体が今、嘘やごまかしで埋め尽くされています。「いじめ」に至っては大人たちの歪んだ眼が子供たちの心の眼まで蝕んでいます。未来を担う子供たちにはせめて、清い心の眼の素晴らしさを教えてあげなければ。ここでは様々な「眼」の尊さについて話してみたいと思います。

環境を見る眼
私の職業である建築家の話から始めようと思います。人はデザインの優れた美しい建築を見て感動すら覚えますが、そうした建築に限ってその内には深い思索に満ちた建築家の思いが込められています。建築家は美しい建築、気持ちの良い建築を創ろうと努力しますが、依頼者が望む条件を満たすための表現は必ずしもひとつとは限りません。そこに建築家のデザインの力が発揮される余地があります。質の高い建築とは依頼者の思いだけに留まらない、デザインの総合的な力が込められた建築です。デザイン力とは昆虫の複眼のような様々な眼で同時にモノを見て表現する力のこと。言葉を換えれば建築家にとっての依頼者は建築主だけではないと言えることです。その建築をとりまく時代や社会や周囲の自然が求めているものを的確に探し出し読み取る眼が建築家には必要です。言わば「環境を見る眼」を持って建築を創る力こそが建築家のデザイン力と言えるのです。

モノの心を見る眼
かつて奈良に西岡常一という名工がおりました。京都や奈良に建つ国宝級の社寺の改修工事を手がけた現代日本屈指の宮大工ですが、彼は「木の心」と題した著作の中で木を扱うためには木の性格を読むことから始めなければならないと説いています。木はまっすぐに育ったものばかりではありません。育つ環境の中で曲がってしまった木や大きく伸びられないままに年輪を重ねるしかなかった木など、同じ材種でもその生態は様々です。建築は一見まっすぐな木を使って造るのが良い建築になるようにも思えますが、まっすぐだからといって木が育った根っ子の側の上下を逆さまにして使ったり、曲がって育った木を無理矢理まっすぐに削って使ったりするとかえって歪みが出てしまいます。曲がった木は曲がっていることを生かせる場所に使う。木の表と裏、上下、寒い地域で育ったものか、暖かい地域で育ったものか…等々、木の性格をきちんと見極めて適材適所に無理なく使うことで百年生きた木はさらに百年生かせるのだと言います。そうした木たちのそれぞれが各々の役割を担って「建築」というひとつの世界を構成します。どれひとつも欠けては成り立たない役割を担って組み上げる。大工とはそうした木の「個性」を生かし建築に仕上げる役目のことをいうのだと彼は言います。彼の言うこの「眼」こそは人の教育論にも通じる深い洞察力に満ちた、暖かくて厳しいモノの心を見る眼だと思います。
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建築家/小見山健次
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清い心の眼を
子供たちの未来へのメッセージ
新春宣言-4
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