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上毛新聞/オピニオン21
依頼者の希望を生かす
建築の命
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建築家/小見山健次
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生き長らえることを許された歴史建築が話題になる一方で、地域に根付くことを見限られてしまう建築があちこちで散見される。未来に向けて漕ぎ出す箱舟のように夢を託されて建設されたにも拘らず、『箱物行政』の無策、軽薄の代名詞のように批判の槍玉にあげられてしまう公共建築などはとりわけ悲惨である。こうした計画に携わる私たち建築家にとって、それは身を切るようにやるせなく辛い出来事である。状況はともあれ建築を生み出し、あるいは取り壊すことに直接関わった建築家たちの不見識さや思慮不足に起因するところも大きいだけにその思いはなおさらである。
先日の新聞によれば、日本中から公募され著名な建築専門家たちに厳正に審査されたはずの建築案が行政の執行者が変わり議会決議が翻ったなどの理由で陽の目を見ることなく簡単に破棄されてしまった。民意を反映するという大儀のもとに市民や行政関係者だけで、いわゆる“素人コンペ”を実施した結果、住民からその使い勝手や稚拙なデザイン性が批判されたりすることなどもよくある話だ。

建築の価値は何をもって評価すべきか、このことについては建築への視点があまりに多様なだけに評価軸をひとつにすること自体が難しい。文化への高い識見が培われた成熟した社会環境が形成されない限り、建築にとってヒトは〈敵〉と言うべきかもしれない。悲しいけれど波間に浮かぶ小舟のように、「建築」はただただ危うく「儚い」だけの存在である。
しかし真に優れた建築の〈豊かさ〉は一目瞭然である。言うまでもなく建築は世界の歴史を語る上で文化としての時代を象徴してきた。時代性に富み、文化の香り高く、頑強で経済性に優れ、自然と調和し、快適で使い勝手の良い建築…。これらの要素がバランスよく配慮された建築は本当に素晴らしい。こうした建築に出会うにつけ建築が単に技術の産物ではなく、むしろ人の心に訴えかける芸術に近いことも理解される。
むろん建設には優秀な施工技術が不可欠だが、それもまずは優れた計画があっての話である。様々な工夫を凝らし、目的に沿った緻密な配慮が施された建築の実現は、単に予条件をクリアすることに留まらない建築家個人の良識にかかっている。
巨匠建築家といわれた村野藤吾は「依頼者の希望を100%生かさなくてはいけない。そうしても実は必ず1%が残る。その1%に全てを賭ける、それが村野の建築です」と言った。まるで大地に根を下ろしたように悠然とした彼の建築たちはいまだに見る者を感動させる力を秘めている。厳しい経済不況が続く現代は建築にとって不遇の時代であるが、だからこそ使い捨てられる消費財であってはならないだろう。
今求められる建築は生活に深く関わり、真に愛されるべき価値を秘めた生活者の目で捉えられた建築である。それらは、どう創るべきか、あるいはどう在るべきか。まさに建築家の哲学的なモラルにその生死は委ねられているのである。
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